毛抜きの歴史は、ハサミやカミソリが日本に伝わるよりも古く、その原型は二枚貝を用いたものといわれています。枕草子の七七段に「ありがたきもの。・・・毛のよく抜くるしろがねの毛抜き。」とあるように、平安時代には金属製の毛抜きが既に存在していたようです。やがて、室町時代あたりに庶民の間にも広まり、江戸時代では現在のものとほぼ同じ形の毛抜きが使われていました。
倉田製作所の初代「倉田米吉郎」は、幼小11歳の時に浅草で五代続いた毛抜き職人「大沢角久」に徒弟奉公、毛抜き職人の道に入りました。当時浅草には毛抜き鍛冶と呼ばれる職人が多数いましたが、関東大震災、太平洋戦争でその数が激減する一方、米吉郎は6男5女の子供をもうけ、長男福太郎をはじめとする男子6人全員が毛抜き職人の道に入り、戦後の刃物業界では倉田一族として名を馳せました。
2代目福太郎は、10歳の頃より米吉郎につき、後に日本橋人形町の老舗「うぶけや」の先代に仕事を教わりました。そこで江戸時代から伝わり現在最高級品と言われる「いろは」「甲丸」「ひょうたん」等の本手打ち毛抜きの仕事を伝承、永眠する2年前の88歳迄仕事一筋の職人と働き通しました。福太郎は、毛抜きを作る過程で一枚の板を折り曲げる時に使うペンチを考案したり、その仕事へのこだわりは、「私の作った毛抜きで痛いことがあったら私も職人だ、指切ってもよござんす」というセリフにもあらわれています。
祖父は明治の初めにこの道に入りました。二代目の父は人形町の「うぶけや」で修行を重ね、技を磨き、私は金槌を振るう父の背中を見ながら育ちました。戦時中、疎開先の新潟で中学二年の時から父の仕事を手伝い始め、戦後、浅草に戻ってみると家はなく、小屋を建てて仕事を続け、モノのない時代で作れば売れました。
外注し、人を雇い、寝る間も惜しんで仕事に没頭しましたが、その間、父から厳しく仕込まれたことは1度もありません。ある日、新潟・五泉市にある絹織物メーカーから反物のほつれを直す毛抜きの注文がきました。「おまえ作ってみろ」。父から言われて夢中で作った物が気に入られ、追加注文が続いたとき、初めて父の喜ぶ顔を見ました。その後、職人気質の父も金槌を振るう回数が次第に減り、いつしか二代目の父は高級品を、三代目の私は数をこなす役回りに。
そんなある日、私は過労による腎臓病で倒れ、「このままなら死ぬぞ」と言う医者を説き伏せ、塩抜きの食事で働きながら病と闘いました。早朝から金槌を握り、周囲からは「ニワトリを起こす男」とからかわれたものでした。先代の父は90歳で他界。88歳まで毛抜きを作り続けてました。師である父の教えは「手を抜くな。念には念を入れろ。」その言葉を胸に約60年以上も金槌を振り続けています。
三代目の私は今年で82歳。その技は四代目・息子の聖史に受け継いで貰わなければなりません。最近はモノにこだわる人が多くなり、注文が入ることが増えました。この歳で働けるなんて職人冥利につきます。職人でよかった。と本当に思う日々を過ごさせてもらっています。
2015年5月倉田義之
昭和8年、先代福太郎の長男として生まれる。12歳で戦災にあう中、中学に通いながら仕事を手伝い、卒業後本格的に職人としての道に入る。現在、江戸本手打ち毛抜きの技術を受け継ぐただ一人の職人である。
昭和39年義之の長男として生まれる。大学卒業後婦人服メーカーに就職。平成2年に家業を継ぐことを決意、現在本手打ち毛抜きの技術を継承中。
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1964年1971年 | 毎日グラフ | |
2005年 | 婦人公論 | |
2006年 | 江戸東京 職人の名品 | 東京書籍 |
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2008年 | ひととき | JR東海 |
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